スピントロニクス技術で連想記憶を実演
仮想ニューラルネットワークという新しいアルゴリズムを提案
【発表概要】
- スピントロニクスの技術によって脳型演算を実現
- 消費電力を大幅に削減しながら効率的な連想記憶を行う新しいアルゴリズムを開発
- 電圧制御された磁性体(電圧MRAM)を用いて連想記憶を実演
産業技術総合研究所(産総研)の谷口知大氏,東京大学の今井悠介氏は,電圧制御された磁性体(電圧MRAM)を用いた連想記憶の新しいアルゴリズムを開発した.連想記憶は,特定の入力に対して関連する記憶を呼び出す技術であり,基本的な脳型演算の一つである.谷口氏らは,従来のスピントロニクス技術を応用し,単一の磁性体素子で仮想的なネットワークを構築することで,消費電力を大幅に削減しながら効率的な脳型演算を実現した.本研究では,複数の素子を結合する必要があった従来のアプローチとは異なり,単一素子で仮想的にネットワークを形成し,そのネットワークを通じて連想記憶を実演した.このアプローチにより,素子間の結合に伴う技術的課題や消費電力の大幅な削減が期待される.今回の発表は,次世代の脳型演算の進展に貢献するものである.
人間の脳を模倣する脳型演算
脳型演算(ニューロモルフィック・コンピューティング)とは,脳内の神経細胞であるニューロンとシナプスの動作をハードウェアで模倣し,情報処理を行う技術だ.「連想記憶」は,脳型演算の応用例の一つだ.人間の脳が持つ,特定の入力に対して関連する記憶を呼び出す能力を模倣する技術であり,未知の入力を既知のパターンと照合し,認識することから,パターン認識のひとつと位置づけられる.
しかし従来の連想記憶技術では,ハードウェア上で複数の素子の結合を実装するという技術的課題や,素子の性能のバラつきがエラーの原因になるという問題があった.また,複数の素子を使用することで消費電力が増加し,エネルギー効率が低下するという問題もあった.これに対し,谷口氏らの研究グループは,単一の電圧制御された磁性体「電圧MRAM(※1)」で連想記憶を実現するアルゴリズムを提案し,エネルギー効率を含むさまざまな改善を行った.
※1 電圧MRAM 電圧によってMTJ素子の磁化を制御することによって情報を記録する.また,トンネル磁気抵抗(TMR)効果によって,記録された情報の読み出しを行う.
谷口氏は,「従来のアプローチとは異なり,単一素子を利用し,仮想的なネットワークを組むことで,素子間の結合に伴う技術的課題を回避し,消費電力を大幅に削減することができます」と語る.このアプローチは,スピントロニクスの技術を応用したものであり,磁性体の磁気異方性エネルギーを電圧制御することで実現されている.
スピントロニクスはナノメートル(100万分の1ミリ)サイズの磁石を使って新しい機能性を持つ電子デバイスの開発を目指す研究分野であり,これまでに超高密度ハードディスクの読み出しヘッド,不揮発性メモリ(※2)などの実用化が実現されている.また,産総研の開発した酸化マグネシウム(MgO)を用いた磁気トンネル接合素子(※3)は,これら応用の基本素子として実用化デバイスに使われている.
※2 不揮発性メモリ(MRAM, Magnetoresistive Random Access Memory) 電源を切ってもデータが保持されるという特徴があるメモリ.
※3 磁気トンネル接合素子(MTJ, Magnetic Tunnel Junction) ナノメートルサイズの2つの磁性層とその間に挟まれた,薄い絶縁層から成り立つ接合素子.HDD磁気ヘッド,不揮発性メモリMRAMの記憶素子などで実用化されている.
谷口氏は,「スピントロニクス技術を用いることで,クラウドを使わずにエッジ端末での計算が可能になれば,社会で使われる特定の計算のエネルギー効率を向上できる可能性がある」と述べる.
スピントロニクス技術を応用し連想記憶を実演
スピントロニクス技術を脳型演算と結びつける試みは2017年頃から始まっている.人工ニューロンとして用いられるスピントルク発振素子(STO ※4)はナノメートルサイズと非常に小型であるため,スマートフォンなどエッジ端末に搭載可能な機械学習装置の開発に繋がるなど,応用の幅も広い.
※4 スピントルク発振素子(STO, Spin Torque Oscillator) スピントロニクスデバイスの一種.磁気抵抗膜用いた電子デバイスであり,スピンの振動を利用し,交流の電気信号を出力する.
今回の研究(電圧制御された単一磁性体〈電圧MRAM〉による連想記憶)のベースとなるものは,産総研が2022年に応用物理学会で発表した,単体のSTOによる連想記憶だ.当時から研究メンバーであった谷口氏は今井氏(当時は産総研のポスドク)と共に動作原理となる基礎理論の構築に取り組んだ.「一つの素子で脳型演算を行うため,複数素子の結合やばらつきによる性能低下に関する課題が回避できます」と谷口氏は話す.谷口氏が提案する手法は,単一のSTOを用いて仮想的な振動子ネットワークを構築し,人工ニューロンとして機能させ,連想記憶の操作を行うというもの(図1).このアプローチの利点は,単一のSTOのみを使用することによって従来の構造が抱えていた結合を実装する困難や性能のばらつきによって引き起こされる動作の不安定性を回避できることだ.
単体STOによる連想記憶の実現は画期的だったが,STOには消費電力が大きいという課題があった.そこで今回はエネルギー効率の高い電圧MRAMを用いることを考えた.そしてSTOという振動子から電圧MRAMというメモリ素子への置き換えに伴い,連想記憶のアルゴリズムを再開発した.このアプローチでは,磁性体の磁気異方性エネルギーを電圧で制御し(※5),素子の出力を制御する.アルゴリズムは単一素子からの出力を素子に再入力し,新しい出力を得るというものだ.「これはメモリ素子を使った一種のフィードフォワード・ニューラルネットワークとみなせます」と谷口氏は話す(図2).フィードフォワード・ニューラルネットワーク(Feedforward Neural Network,FNN)とは,人工ニューラルネットワークの一種であり,情報が入力層,隠れ層(1層または複数層),出力層へ一方向に流れる構造を持つネットワークだ.谷口氏らが開発したアルゴリズムは,単一の素子からの出力を再入力し,新しい出力を得るというものであり,単一の素子で仮想的なフィードフォワード・ニューラルネットワークを模した構造を用いて連想記憶を実現する.
※5 電圧誘起磁気異方性(VCMA, Voltage-Controlled Magnetic Anisotropy)効果 電圧をかけることで磁性材料の磁気異方性エネルギーを制御する現象.
谷口氏は「電圧MRAMはSTOとは異なり,ほとんど電流を流さないためにジュール発熱が抑制されます.これにより,消費電力を3桁程度低減できることが期待されます」と利点を説明する.
危険地帯や極限環境での機械学習に応用可能性
谷口氏は「この新しいアルゴリズムは,スピントロニクス技術だけでなく,他分野の素子を使った連想記憶にも適用可能です.また,連想記憶に限らず,最適化問題など他の社会課題にも適用可能であり,多くの分野との融合が期待されます」と話す.具体的な応用例としては,スマートフォンなどのエッジ端末に搭載可能な低消費電力の機械学習装置の開発が挙げられる.「深海など,クラウドが使えない極限環境での機械学習を用いた高度な情報処理などに利用できます.また,磁性体を利用してデータを記憶するため,放射線などに耐性を持ちます.放射線量が高い危険な場所で作業を行うロボットなどで高度な情報処理を行うといった応用も視野に入ります」と意欲的に語る.
その潜在的な可能性に対し谷口氏は,「スピントロニクス素子の脳型演算への応用はまだ未来の技術であり,現時点でどのようなデバイスやアプリケーション開発が可能かを限定するのは時期尚早です」と慎重だ.「しかし私たちの研究は,スピントロニクス技術を用いた連想記憶の実現に留まらず,さまざまな分野に応用できるポテンシャルを持っています.これからも多様な応用可能性を探求し,実用化に向けた研究を進めていきたいです」と今後の展望を述べる.谷口氏のアプローチは脳型演算の新しい可能性を開拓するとともに,未来の情報技術に革新をもたらすものになるだろう.
文責 サイエンスライター 森 旭彦
【講演情報】
講演番号:16a‐D61‐6電圧制御された単一磁性体による連想記憶 Associative memory by a voltage controlled ferromagnet
- 産総研1
- 東大2
- ◯谷口知大1
- 今井悠介2
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