特別WEBコラム 新型コロナウィルス禍に学ぶ応用物理 創薬を目指したSPring-8/SACLAの構造生物学研究 山本 雅貴 理化学研究所
1. まえがき
2020年初頭から感染を拡大し続けている新型コロナウイルスの猛威は世界的に社会混乱を引き起こしている.我が国でも2020年4月7日に史上初の緊急事態宣言が発出されるなど一般社会生活のみならず研究環境にも大きな影響を与えた.5月後半の緊急事態宣言解除後,社会生活は回復し始めているが,第2波への不安など新型コロナウイルスの脅威を取除くためワクチンや治療薬の開発が期待されている.5月初めには抗ウイルス薬「レムデシビル」が特例承認され,我が国発の「アビガン」への期待も高まるなど,治療薬開発が注目されている.本稿では現在の治療薬開発において重要な手法である「タンパク質立体構造情報に基づく薬剤設計(Structure Based Drug Design: SBDD)」1)を紹介するとともに,その立体構造決定の主要な解析手法である放射光やX線自由電子レーザーによるタンパク質結晶構造解析を紹介する.
2. 創薬研究
2.1 タンパク質と疾病の関係
ヒトをはじめ全ての生物は,外界の条件が変動しても生物としての状態や機能を一定に保つ働きホメオスタシス(生体恒常性)を備えており,これにより生命が維持されている.病気はホメオスタシスが崩れた状態である.ホメオスタシスを保つためには内分泌系・自律神経系・免疫系など様々な生体システムを構成する細胞が協調して働いている.それらの細胞が生体システムを実現するための最小単位がタンパク質で,酵素作用(化学反応),機械運動や外部情報を取込むセンサーなど多様な機能を実現している.タンパク質は1-10nm程度の大きさで,20種類のアミノ酸の組合せによりそれぞれの機能を実現する多様かつ複雑な立体構造を取る.多くの病気はホメオスタシスを維持する生体システムを構成するタンパク質の異常により引き起こされる.一方,病気の治療に用いられる薬は関連する細胞に働きかけて,病気の進行を止めたり,症状を緩和したりする.その実体は病気の原因タンパク質に作用して,その機能を正常化することである.そこで,現在の治療薬開発の第一段階では病気の発症メカニズムを正確に理解して,その原因となるタンパク質(創薬ターゲット)の働きを適切に制御できる化合物の探索と開発が中心となる.
2.2 創薬研究におけるタンパク質立体構造情報
タンパク質はそれぞれの機能に特化した立体構造により機能を発揮することが知られており,創薬ターゲットの働きを制御するする化合物との関係は,「鍵と鍵穴」に例えられる.そこで,タンパク質立体構造情報に基づく薬剤設計(SBDD)では,ターゲットタンパク質に特異的に結合してその働きを制御する化合物(鍵)を,正確に決めたターゲットタンパク質(鍵穴)の立体構造から探索・設計する.ここでは,放射光のタンパク質結晶構造解析が重要な役割を担っており,化合物が創薬ターゲットに結合した複合体として構造解析できれば,その構造を基に新規化合物を設計することで,効率的な治療薬開発が可能になる.
2.3 SBDDによる抗インフルエンザ治療薬の開発
抗ウイルス薬開発では生体内のウイルス増殖機構の理解が重要である.一般的にウイルスは宿主細胞表面の糖鎖やタンパク質に結合して感染する.結合し細胞内に取り込まれたウイルスが分解して,細胞内にウイルス粒子の再生に不可欠なタンパク質複合体やウイルス遺伝子を放出することで,宿主細胞のシステムを使ったウイルス遺伝子の複製・ウイルスタンパク質の合成が始まる.その後,合成されたウイルスタンパク質やウイルス遺伝子から大量のウイルスを再構成して宿主細胞の表面に出芽・遊離することで増殖を繰り返していく2).
ウイルスの増殖に重要なウイルスタンパク質の働きを阻害すればウイルスの増殖・感染を防ぐことができる.そこで,抗ウイルス薬の開発では,SBDDに基づきウイルスタンパク質の立体構造を求め,その働きを特異的に阻害する化合物の探索・設計が進められる.抗インフルエンザ治療薬として使われている「タミフル」「リレンザ」は,新生ウイルスが宿主細胞から遊離する際に不可欠な細胞表面の糖鎖切断を担うウイルスタンパク質の働きを阻害する薬剤として,糖鎖の構成成分であるノイラミン酸とウイルスタンパク質ノイラミニダーゼの複合体立体構造3)を基に開発された(図1).話題の「レムデシビル」や「アビガン」はウイルス遺伝子を複製する酵素(RNA polymerase)の機能を阻害する薬剤として,新型コロナウイルス治療でも薬効を期待されている.
(a)創薬ターゲットであるノイラミニダーゼの基質結合ポケットの構造
(b) 基質結合ポケットに結合した天然基質であるノイラミン酸の構造.
(c) 天然基質の構造を基に設計されたインフルエンザ治療薬(リレンザ)の結合の様子.
3. タンパク質の構造研究
タンパク質の立体構造決定ではX線結晶構造解析4)が有力な解析法である.実験室のX線と比べ桁違いに強いビーム強度を持ち,また波長可変な放射光は1990年代からタンパク質結晶構造解析の主要なX線源として利用されている.2000年以降SPring-8をはじめ第三世代放射光施設の高輝度ビームライン,タンパク質発現精製技術や解析計算技術の進歩により,タンパク質複合体や膜タンパク質といった生命科学研究や創薬ターゲットとして重要でありながら構造解析に十分な大きさと質の結晶の作成が難しかった高難度ターゲットにも解析範囲が拡大され,迅速かつ簡便なタンパク質立体構造決定が可能になった5).
3.1 SPring-8のタンパク質結晶構造解析
SPring-8 6)は兵庫県西部の播磨科学公園都市に位置して,幅広いエネルギーの放射光が利用できる共用基盤施設である.タンパク質結晶構造解析では世界トップレベルの高輝度マイクロビームを活用して,高難度ターゲットの微小結晶構造解析の研究を進めている.大量の微小結晶から効率的に回折データ収集を行う自動測定システム「ZOO」7)を開発し,今まで解析できなかった数µmサイズの微小結晶の構造決定を可能にした.一方,結晶構造解析の専門家以外でも簡単に解析できるよう結晶構造解析の迅速自動化にも取組んでいる.サンプル交換ロボットや高速検出器の導入と自動測定システムにより,今では数分で構造解析可能なデータ収集が可能になっている.感染症関連では,横浜市立大学の朴グループがインフルエンザウイルスの複製で中心的な役割を担うRNAポリメラーゼの働きに重要なPB1-PB2サブユニット間相互作用を原子レベルで構造解析して,その相互作用を阻害する薬剤開発が期待されている(図2)8).新型コロナウイルスでも増殖に重要なタンパク質の構造解析が進められようとしている.
3.2 SACLAのタンパク質結晶構造解析
SPring-8サイトでは,10 fs程度の極短パルスX線を利用できるX線自由電子レーザー施設SACLA 9)も2012年から利用が始められている.このパルスX線の継続時間は,放射光で問題となる放射線損傷の10 psオーダーの化学反応時間より短く,放射線損傷のない高分解能構造解析が可能であるだけでなく,ナノ秒レベルの時間スケールで働くタンパク質の動的結晶構造解析も可能にし,バクテリオロドプシンの光異性化に伴う最初のプロトン移動の仕組みを明らかにした10).このようにSACLAの利用は,静的な「鍵と鍵穴」に基づく創薬研究を一歩進めた生理活性状態のタンパク質の動的構造に基づく基質認識機構の解析をも可能すると今後の展開が期待されている.
4. むすび
SPring-8は,生命科学研究や創薬ターゲットとして重要な高難度ターゲットの構造解析を21世紀の高度なタンパク質結晶構造解析として実現した.SACLA は,タンパク質の構造ダイナミクス解析など新しいタンパク質結晶構造解析を可能にした.これらはSBDD に基づく創薬研究の基盤技術をより強固なものとし,新型コロナウイルス治療薬の研究開発にも貢献するものと期待される.SPring-8・SACLAは(国研)日本医療研究開発機構(AMED)「創薬等ライフサイエンス研究支援基盤事業」創薬等先端技術支援基盤プラットフォーム(BINDS)11)の構造解析拠点として,生体高分子の構造解析支援を広く実施している.
謝辞
本稿で紹介した最先端のタンパク質結晶構造解析はSPring-8およびSACLAのスタッフとユーザーの共同作業により開発及び維持されてきたものあり関係者の協力に感謝申し上げます.
文献
- 1) A.C. Anderson : Chemistry & Biology, 10, 787 (2003)
- 2) 田口文広 : ウイルス 56, 165 (2006)
- 3) P.M. Colman : Protein Science 3, :1687 (1994)
- 4) 山本雅貴:放射光27(6), 282 (2014)
- 5) M. Yamamoto et.al.: IUCrJ 4, 529 (2017)
- 6) http://www.spring8.or.jp/ja/about_us/whats_sp8/
- 7) 平田邦生:日本結晶学会誌62, 84 (2020).
- 8) 朴三用:MEDCHEM NEWS 26. 185 (2016)
- 9) http://xfel.riken.jp/sacla/index00.html
- 10) E. Nango, et.al. : Science 354, 1552 (2016)
- 11) https://www.binds.jp/