農学から発信される分光計測 近赤外分光計測を例として 土川 覚 名古屋大学大学院生命農学研究科教授 特別WEBコラム GX : グリーントランスフォーメーションに挑む応用物理

はじめに

農学は,生物や生物由来の物質の機能や特性を解明する生命科学系の総合科学であり,グリーントランスフォーメーション(GX)に直結した学問領域ですが,他の専門領域との融合や出会いがあって大きく進展してきました.例えば,測定対象の構成物質や物性を解析する分光学は,その好事例です.通常,測定や解析手法自体のアイデアは,理学や工学分野から発信されることが多いのですが,ここで紹介する「近赤外分光法」は,各国の農業試験場や農学関連の学部・研究室が牽引して実用化されたユニークな分析手法であり,以下に概要と筆者の研究室におけるいくつかの研究成果について紹介します.

近赤外光について

電磁波である光は,波長領域によって性質が大きく異なります.近赤外光は,可視光(波長:380~780 nm)と赤外光(波長:2,500~25,000 nm)の中間に存在する電磁波(波長:800~2,500 nm)のことで,可視光線のように人間の目で確認することはできません.この波長域における光の吸収や発光に基づく分光法のことを,近赤外分光法(Near Infrared Spectroscopy: NIRS)と呼びます.

近赤外光が物質に吸収される割合は,赤外領域よりもはるかに微弱です.したがって,赤外法のように試料を希釈するなどの前処理を行う必要がありません.これは,試料中の高濃度成分を直接測定できること,つまり,試料を非破壊で計測できることを意味します.特に,近赤外領域における水分子のモル吸収係数は赤外領域におけるそれの1/1,000程度であるため,水を多く含む農産物や食品を測定する場合には,とりわけ有益な手段になります.その一方,近赤外光は物質内部で激しく散乱するため(波長1,000 nm以下の光散乱係数は光吸収係数の1,000~10,000倍にもなります),化学成分による光吸収情報が埋没してしまうことが多く,いろいろな官能基に由来する吸収ピークは,「ぼやけた物質情報」となってしまいます.そこで,ケモメトリクスと呼ばれる手法を用いてコンピュータによる数学的・統計的解析を行い,近赤外スペクトルから「意味のある物質情報」を抽出して品質評価を行うのが一般的です.近赤外光は低エネルギーの電磁波であるため,人体および試料が測定中に損傷を受けることはほとんどありません.多くの利点をもつ近赤外分光法は,すでに食品,薬品,化学工業などの分野においてはオンライン成分分析装置として実用化されており,正確さ,迅速性の点からも近年特に注目を浴びてます.

農学と近赤外分光学との関わり

以下に,著者の研究グループが行ってきた近赤外分光研究のいくつかを紹介します.これらの研究は,名古屋大学大学院生命農学研究科稲垣哲也准教授と馬特特任助教によって精力的に進められています.

近赤外ハイパースペクトラルイメージング法による農産物の品質評価

近赤外光を果実に照射し,その反射・透過スペクトルから糖度や酸度を推定する手法は,多くの選果場に導入されていますが,果実全体の平均化されたスペクトル情報に基づいて解析されるため,部位による品質のバラツキまでは評価できません.近赤外カメラと分光器を組み合わせたハイパースペクトラルイメージング(NIR-HSI)法を使うと画素レベルでの解析が行えるため,これを応用する研究が盛んに行われています.著者らはNIR-HSIカメラによってリンゴやキウイの分光画像を連続撮影しました(波長1,000~2,350 nm,約6 nm間隔).その後,糖度計による実測値とスペクトル変動の関係を多変量解析によって見出し,糖度に関する最適検量線を作成しました.糖度予測モデル検量線を各画像ピクセルに収納された近赤外スペクトルに適応させると,果実内の糖度分布が高い空間分解能で確認できるようになりました(図1)[1, 2].

図1: ハイパースペクトラルイメージング法によるキウイ糖度分布推定.

また,従来の測定法で得られる拡散反射スペクトルには試料の化学成分と物理構造の情報が混在しており,予測モデルの分光学的および物理学的な解釈が曖昧になることがあります.例えば,果実の硬度に関連する化学変化を検出することは困難であり,このことが熟度を正しく評価する障壁になっていました.そこで著者らは新たにNIR-HSI空間分解分光法を提案し,果実内での光散乱情報を活用して果肉硬度を高精度評価することに成功しました [3].

近赤外マルチスペクトラルイメージング法による食品異物検査

現在,食品生産ラインで実用化されている代表的な異物検出装置は金属検出機とX線検査機です.食品中の石やガラスなどはうまく検出できるのですが,毛髪や昆虫のような低密度の異物検出は極めて困難です.そこで著者らは新たに近赤外マルチスペクトラルイメージング法を考案し,食品内部の異物検出を試みました.昆虫(ハエ)を封入したチョコレート(厚さ10 mm)をハロゲンランプで照射し,試料を透過した近赤外光をいくつかの短波長カットフィルタを重ね合わせて近赤外カメラによって撮影するシステムを設計しました.チョコレートと異物の透過光強度の差が大きい複数の画像に主成分分析を施し,さまざまな画像処理を連結させることで昆虫を高い精度で検出することが可能になりました [4].

植物最適生育条件の探索植物対話農法の構築を目指して

植物工場では,作物の生育状態を逐一モニタリングし,最適な環境で栽培を行うことが望まれます.著者らは,近赤外分光法によって葉の含水率モニタリング検量線を作成し,非破壊かつ連続で含水率を測定できるようにしました.さらに,カメラによって植物の形状・大きさをモニタリングし,CO2濃度や温度・湿度も連続的に測定しこれらの情報を植物育成環境にフィードバックさせます.植物にとって最適な生育環境をその都度自動で設定するシステムを植物対話農法と名付け,より高品質・高収量で農産物が生育する環境構築を目指しています(図2).

図2: 近赤外植物対話農法のイメージ.

終わりに

農学と近赤外分光法の関りは今後も深化すると予想されますが,ブラックボックス的な使用は絶対避けるべきです.どんな計測法にも限界があります.使用している装置の特性(S/N比等),実測値自体がもつ誤差,多変量解析の妥当性,分光学的な理論背景などを常に気にしながら,やや控えめに予測精度を見積もり,そして自信を持って結果を世に問う姿勢が必要です.

著者プロフィール

土川 覚

(つちかわ さとる)

1989年名古屋大学大学院農学研究科前期課程修了.博士(農学).名古屋大学助手を経て2004年より名古屋大学大学院生命農学研究科教授,2019年より生命農学研究科長・農学部長.応用分光学を基盤とする木質材料・農産物・食品等の品質評価・物性評価に関する研究に従事.一般社団法人日本木材学会会長,特定非営利活動法人東海地域生物系先端技術研究会理事長,アジア近赤外研究会会長.

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