特別WEBコラム 新型コロナウィルス禍に学ぶ応用物理 ウイルスタンパク質の動力学と創薬〜スーパーコンピューターによる分子動力学シミュレーション 沖本 憲明,小松 輝久,泰地 真久人 理化学研究所
1. まえがき
新型コロナウイルスによる感染症COVID-19が世界中に拡大し,甚大な被害をもたらしている.今現在,COVID-19に対する治療薬の開発は,世界中で前例のない速さで進められている.近年の治療薬の設計開発においては,治療ターゲットとなる生体高分子(タンパク質など)の立体構造情報を利用して薬分子を設計開発していく「構造ベース創薬」が一般的な手法の1つとして用いられている.薬の治療標的を調査し,そして,標的となる生体高分子の立体構造が決定されれば,その構造情報を利用した生体高分子機能を制御する薬分子の設計が可能となる.例えば,基質分子が作用する活性部位「ポケット」の形状に合わせて,基質結合を阻害する薬分子を設計・探索することが構造ベース創薬にあたる.
構造ベース創薬では,実験的なアプローチだけではなく,計算科学的なアプローチも重要な役割を担っている.分子ドッキング法はその中心的な手法であり,生体高分子と薬分子候補の立体構造を利用し,その複合体構造と親和性を高速に予測することができる.膨大な薬分子候補に対する分子ドッキング法は,いくつかの承認薬の開発に貢献してきた.しかし,通常の分子ドッキングでは,生体高分子の立体構造を剛体とし,そのポケット形状内で薬分子の配座を探索するため,タンパク質の柔軟性やその周囲の環境効果(水和効果など)が十分に考慮されていない.一方,分子運動を詳細に記述できる分子動力学(Molecular Dynamics, MD)シミュレーションは,生体内環境中において薬分子が生体高分子に結合する過程を観察することを可能とする.我々は,MDシミュレーションを高速に実行できる計算機を開発し,薬分子設計に応用することを試みている.
2. MDシミュレーションと専用計算機
MDシミュレーションは,原子を質点と見なし,その間に働く力を古典的な力として近似し,ニュートンの運動方程式を解く方法である.生体分子のMDシミュレーションおよび量子化学計算との結合手法の開拓に対し,2013年のノーベル化学賞が授与されるなど,手法として確立している.タンパク質研究のみならず高分子,分子性結晶,表面などの材料研究にも用いられている.
タンパク質の場合,薬分子との結合過程は遅く,多くはµs〜sの時定数を有する.一方で,シミュレーションの基本ステップは2〜2.5 fsが標準的であり,1msまで到達するには4×1011ステップが必要となる.この計算を10日で行うためには,1ステップを実時間約2µsで計算する必要がある.通常の計算機では並列性能に限界があるため,最速でも1ステップに1msを要し,目標に対し500倍のギャップがある.
この壁を超えるために,我々はMD専用計算機MDGRAPEシリーズを継続的に開発してきた.MDGRAPEシリーズでは,従前は計算の8〜9割を占める静電気力・分子間力の計算加速にのみ注力してきたが,専用計算機の高速化につれてその他の計算がボトルネックになった.最近,この限界を破るため計算のすべてをシステムオンチップ(System-on-Chip, SoC)で計算する専用で使う計算機MDGRAPE-41)およびその改良版MDGRAPE-4Aを完成させた2)(図1).MDGRAPE-4Aではシミュレーションは全て専用計算機内で閉じて行われ,ホスト計算機は初期化とデータの回収のみを行う.また専用化を一層推進し,例えば結合力計算に必要な特殊関数評価を高速に行える汎用プロセッサの開発を行った.通常静電気力は長距離部と短距離部を分け,長距離部は格子点上において波数空間で計算する.このアルゴリズムの改良から開発を行い,格子点への電荷割り当て等を含め全て専用化した.通常の計算機では通常一種のCPUを並列化・高速化しているが,複数の専用計算部を高密度・低遅延で統合し,高速化を図る点が専用機の大きな特徴である.さらに,低遅延の高速な光ネットワークを開発し,512チップによる効率の高い並列分散処理を可能とした.
米国ではD. E. Shaw research社において,同種の専用計算機Antonが開発されている3).Antonは,高速化の要素技術はMDGRAPEと類似しているが,SoCによる高速化では先行し,Anton-2では1日80µsの性能に到達している.MDGRAPE-4Aは,現在10万原子系で1日に1µsの性能を達成した状況に過ぎないが,それでも汎用計算機に比べ約5倍の性能を達成している.MDGRAPE-4Aは10年前の40nm CMOS技術で製造されており,今後より先端的なプロセスを用いさらに加速したい.近い将来,1msのシミュレーションを2〜3日で行えるような計算機を開発し,実験と並ぶ重要性を持つ技術としたい.
ワークで接続し,ピーク性能で1.3PFLOPS相当の性能を持つ.
3. 新型コロナウイルスのシミュレーション
3.1 新型コロナウイルスに対する創薬
新型コロナウイルスの増殖過程には,様々な生体高分子(タンパク質など)が関与することが知られている.これらの治療ターゲットタンパク質に結合し,その機能を阻害する薬の開発が試みられている.例えば,ナファモスタットは,酵素タンパク質(TMPRESS2)を阻害することで感染の初期段階であるウイルスのヒト細胞への侵入過程を阻止できると期待されている.ウイルスまた,レムデシビルやファビピラビル(アビガン)は感染細胞内でのRNAの複製に関与するRNAポリメラーゼを阻害することでウイルスの増殖を抑制すると考えられている.これ以外にも,以下に示すメインプロテアーゼ(Mpro, 3CL hydrolase)などのタンパク質を治療ターゲットとした薬の開発が行われている.
2量体構造を形成する2つの単量体はリボン表示(紫色と青色)で示されている.活性部位は
表面表示で示され,ペプチド様阻害薬は黄色の球棒モデルで示されている.
一般的な生物の遺伝情報の流れ(DNA→RNAへ転写→タンパク質への翻訳)とは異なり,本ウイルスはRNAを遺伝情報として持つため,RNAから長いタンパク質へと翻訳され,それが切断されてウイルス構築に使用される.この切断を行う鋏(はさみ)として働き,新たなウイルスの構築に必須のMproは,注目されている治療ターゲットの1つである.エイズウイルスでは,同様の働きを持つプロテアーゼを治療ターゲットとした創薬研究が行われ,効果的な薬剤開発に成功している.新型コロナウイルスMproの最初のX線結晶解析構造は,本年の2020年2月に報告され,以後,今日までに多くの実験構造が報告されている.図2にこの酵素の働きを阻害する薬物が活性部位に共有結合しているMproの構造を示す.この薬物を始め,多くの候補化合物はMproによって切断されるタンパク質の一部(ペプチド)を模倣しているため,ペプチドと誤認して取り込まれ,活性部位で共有結合を形成することで,その機能を阻害する.Mproは2量体構造を形成し,薬物が結合する活性部位が各単量体に存在している.現在,この活性部位に作用しMproの機能を阻害する薬物の開発が,既承認薬の転用(ドラッグリポジショニング)と新規薬物の開発の両アプローチで急速に進められている.効果的なMpro阻害薬を発見するためには,実験や分子ドッキングなどの計算創薬手法に加えて,MDシミュレーションによる活性部位構造の動的特徴や候補薬物の活性部位への結合過程を原子レベルで理解することが非常に重要である.
3.2 新型コロナウイルスメインプロテアーゼのMDシミュレーション
前述のとおり新型コロナウイルスのメインプロテアーゼ(Mpro)は2量体を形成しており合わせて原子数1万弱のタンパク質である.MDシミュレーションは一辺が約10nmの立方体の中にMproと溶媒分子(水分子,Na+,Cl–イオン)合わせて約10万原子を入れて行った.温度は310Kの定温条件とし,長距離のクーロン力を安定かつ効率良く取り扱うために周期境界条件を用いる.10nmという箱のサイズはタンパクが自身の鏡像との間に充分な水の層が保たれた上で計算効率的になるべく小さいサイズという選択基準で選ばれている.図3にシミュレーションボックスを示す.鎖表示のタンパクの周囲の細かい点が水分子で,箱の中身は9割ほどが水分子となっている.
図4にMproと薬分子の結合実験例を示す.Mproから離れた位置に薬分子を置いた状態からシミュレーションを行うことによって,薬分子が実際にMproに会合するか,会合状態が安定か,また何処が会合しやすい場所かといった情報を直接観測することができる.この例では初期に2量体の下側の窪みに複数の薬分子が嵌りこみ,しばらくして水中を漂っていた残りひとつの薬分子が活性部位の近くに結合する様子が観察できる.薬分子は活性部位などに結合した後もその配位を変化させ続けマイクロ秒スケールでも揺らぎ続ける様子が観察される.
様々な薬分子を含めた系,あるいは薬分子の存在しない系に対し,こうした長時間シミュレーションを行うことで,Mproの活性部位付近の形状は動的に大きく揺らぐことがわかっている.また活性部位の形状が会合する薬物種に依存して変化する様子も観察されている.活性部位の形状は薬分子が結合に関わる重要な因子であるため,このようなシミュレーションは既存薬や新規開発薬の適合性を予測するうえで重要な情報を提供してくれる.
(a) t=0ns.(b) t=10ns.(c) t=160ns.(d) t=1000ns.(e) t=2000ns.タンパクは図3と同様の表
示となっている.橙色の鎖の活性部位に1つの薬分子が会合する様子が観察される.(矢印)
4. むすび
シミュレーションの結果から,Mpro活性部位の構造が大きく揺らぐ様子が観察され,動的シミュレーションの重要性が示唆された.今後複数のタンパク質構造を利用した分子ドッキングや,シミュレーションを用いた結合自由エネルギー計算が重要な課題である.COVID-19への対応では,世界的にデータを公開・共有して進める動きになっている5).我々も生データを公開しており6),すでに結果を活用した創薬研究が始まっている7).
我々のグループでは,今後も計算創薬・タンパク質科学の推進のために次世代のMDシミュレーション専用計算機の開発を計画している.次世代機により,累積計算時間を秒のオーダーまで伸ばすとともに,100万〜1億原子規模の大規模系の長時間シミュレーションを実現したい.生体分子のみならず,高分子系のレオロジー等,物質・材料研究にも応用でき,広く活用可能な基盤となると期待される.これを実現する基盤技術は,フォトニクス,光回路技術,高密度実装のための材料技術・熱制御技術など応用物理学と関連が深い.ムーアの法則の限界を超えるためのノンシリコン半導体技術も含め,今後の応用物理学の発展に期待したい.
謝辞
本コラムの内容は,小山洋平・平野秀典・森本元太郎・大野洋介博士との共同研究に基づく.コラムで紹介した計算はMDGRAPE-4Aで行った.MDGRAPE-4Aの開発は当チームのZhang Hao・大村一太・小山洋博士,西田圭吾氏との共同研究である.また開発は(国研)日本医療研究開発機構(AMED)創薬支援推進事業-創薬支援インフォマティクスシステム構築,(独)日本学術振興会(JSPS)最先端研究基盤事業「生命動態システム科学研究の推進」,科学研究費補助金基盤研究(A)「次世代分子動力学シミュレーション専用計算機の基盤開発」から一部支援を受け,大正製薬(株) との共同研究により実施した.
文献
- 1) I. Ohmura, G. Morimoto, Y. Ohno, A. Hasegawa, and M. Taiji: Phil. Trans. Roy. Soc. A372, 20130387 (2014).
- 2) 理研プレスリリース, https://www.riken.jp/press/2019/20191118_2/
- 3) D. E. Shaw, J.P. Grossman, J. A. Bank, B. Batson, J. A. Butts, J. C. Chao, M. M. Deneroff, R. O. Dror, A. Even, C. H. Fenton, A. Forte, J. Gagliardo, G. Gill, B. Greskamp, C. R. Ho, D. J. Ierardi, L. Iserovich, J. S. Kuskin, R. H. Larson, T. Layman, L-S. Lee, A. K. Lerer, C. Li, D. Killebrew, K. M. Mackenzie, S. Y-H Mok, M. A. Moraes, R. Mueller, L. J. Nociolo, J. L. Peticolas, T. Quan, D. Ramot, J. K. Salmon, D. P. Scarpazza, U. B. Schafer, N. Siddique, C. W. Snyder, J. Spengler, P. T. P. Tang, M. Theobald, H. Toma, B. Towles, B. Vitale, S. C. Wang, and C. Young: Proc. Supercomputing 2014, IEEE (2014).
- 4) Z. Jin, X. Du, Y. Xu, Y. Deng, M. Liu, Y. Zhao, B. Zhang, X. Li, L. Zhang, C. Peng, Y. Duan, J. Yu, L. Wang, K. Yang, F. Liu, R. Jiang, X. Yang, T. You, X. Liu, X. Yang, F. Bai, H. Liu, X. Liu, L. W. Guddat, W. Xu, G. Xiao, C. Qin, Z. Shi, H. Jiang, Z. Rao, and H. Yang: Nature 582, 289 (2020).
- 5) R. E. Amaro, and A. J. Mulholland, J. Chem. Inf. Model. 60 (6) 2653 (2020).
- 6) T. S. Komatsu, Y. M. Koyama, N. Okimoto, G. Morimoto, Y. Ohno, and M. Taiji, https://data.mendeley.com/datasets/vpps4vhryg/ ; T. S. Komatsu, N. Okimoto, Y. M. Koyama, Y. Hirano, G. Morimoto, Y. Ohno, and M. Taiji, [DOI:/10.5281/zenodo.3766083].
- 7) S. Koulgi, V. Jani, M. Uppuladinne V N, U. Sonavane, A. K. Nath, H. Darbari and R. Joshi, (2020) [DOI:10.26434/chemrxiv.12228831.v1].


